吉本たいまつ『おたくの起源』を読む

おたくの起源 (NTT出版ライブラリーレゾナント051)

おたくの起源 (NTT出版ライブラリーレゾナント051)

■女性と漫画を排除した「おたく」史の虚妄
 はっきり言って、何をやりたいのかよくわからない本である。
 最大の謎は、自称腐男子で、腐女子文化には詳しいはずの吉本たいまつが、『おた くの起源』から女性向けジャンルを排除してしまったことだ。それも、冒頭の一行目 から、女性については眼中にない書きっぷりで、男性オタク限定の話を始めてしまっ たのだから、少々驚いた。
 しかも、その後で、とってつけたように、


「なお本書では、男性のみに内容を絞る。同時期に女性向けの『おたくジャンル』も 形成され、大いに盛り上がっていくのだが、男性向けとは形成の経緯が重なる部分も あれば、重ならない部分もある。前提となる条件も男性とは異なっている。そこで女性向けに関しては、別の機会に取り上げることにしたい」(p.4)


 と説明する。「紙幅の都合」で排除ではなく、異質だから排除だと言い切るあたり がすごい。
 この後で出てくる吉本の「おたく」や「おたくジャンル」の定義に女性と女性向け とされるジャンルは含まれていない。にもかかわらず、ここでは「女性向けの『おた くジャンル』」という文言を使っている。ここからすでに矛盾しているのではないか?
 吉本は「男性のみに内容を絞る」と断言しながら、小谷真理をはじめとする女性にインタビューし、女性ジャンルにも触れ、初期コミケの女性参加者の人数的な優位さを指摘し、『ふぁんろ〜ど』の「男女共学」を賞賛する。
「男性のみに内容を絞る」ことの不可能性を自ら証明しているわけだが、先の宣言が足枷となったのか、最初から書くつもりがなかったのか、女性にかかわることは表層的なことしか書いていない。
 某氏に、『おたくの起源』と題しながら、冒頭から男性オタク限定の話が始まるのは変だと指摘された吉本は、「萌えオタ」について書くという宣言のつもりだったと弁明した。
 この弁明自体、「萌えオタ=男性」というヘテロセクシャルな発想に囚われているわけだが、これがその場凌ぎの遁辞であることは、同書が、「萌えオタの起源に限定した」狭小なレンジの本ではなく、オタクという言葉登場以前の、SFファンダムから始まるオタク的コミュニティの歴史について書かれた本であることを見れば明白だろう。
 さて、この女性排除が致命的に働くのが、「第二章 マンガ文化の発展とコミックマーケットの成立」である。
 自縄自縛に陥っているのか? そもそも研究不足なのか? 吉本は男性オタクにも多大な影響を与えた70年代少女漫画については語ろうとしない。恋愛テーマの導入、作家の越境など少女漫画からの影響が大きい少年漫画ラブコメについてもほぼ無視している。
少年漫画ラブコメは吉本が批判する「モテ文化」と密接な関係にあるはずなのだが、それを持ち出すことはオタクとモテ文化を対立させて語ろうとする吉本にとっては都合が悪いのかもしれない。また一時期はオタクの牙城であり、一部は少年誌ラブコメや少女漫画の影響を色濃く受け、しかも女性作家も多い美少女系エロ漫画は完全に眼中にない。
 吉本が弁明するように萌えオタについて書くのなら「美少女」というイコンとイデアを巡る文化史、社会史をせめて70年代から見ていかないと嘘だろうし、せめて、「萌え」の先駆だったロリコン漫画のブーム、その後継にして一時期は「萌え」の中軸だった美少女系エロ漫画の隆盛について触れるべきだと思う。
 エロ漫画の重要性を理解していないのは漫画研究者としてどうかと思うが、その程度のことでは驚かない。可視化が進んだとはいえ、まだまだエロティックな漫画に対する理解が届いていない研究者、評論家も少なくないからだ。
驚くべきは、同書巻末の年表に「漫画」の項目自体がないという事実である。
 オタク文化史における漫画の持つ意味をどう考えているのか問いたいと思う。
筆者の感想としては、 とりあえず、
「同書における女性の排除には吉本の無自覚なセクシズムを感じるし、漫画の排除に
関しては歴史性を無視したご都合主義が匂う」
 と言っておこう。


■定義から壊れている
 「女性」と「漫画」に対する排除ないしは軽視という問題を巡って、これは、吉本個人の強い思い入れ(思い込み)が前提にあって、それに都合を合わせたために齟齬が生じているのだろうと考えた。しかし、それにしても、吉本の論理に従って読めば読むほど訳がわからなくなって難渋した。
 基礎部分とも言える用語の定義、解説、解釈から非論理的だし、奇妙な新語が登場するし、一般的な用語用法とのズレが頻出する。
 例えばこんな調子だ。


「本書ではおたくという言葉を、かなり狭い意味で使う。「おたくジャンル」とは、美少女、メカなどのSF要素または魔法などのファンタジー要素、性的要素、恋愛要素持った諸作品に存在する一定の様式とする。人としてのおたくを指す場合、[「おたくジャンル」の作品を愛好し、自らをおたくと自己認識する男性]を指す」(p.8)


 「おたくジャンル」の定義では階層の違う「要素」を並置し、定義自体の成立条件が不明で、なおかつ「様式」という言葉をあたかも自明であるかの如く使っている。
 「人としてのおたく」の定義には「自ら(略)自己認識」という不用意な条件が付加され、しかも、この二つの定義が循環参照に陥っている。
 さらに、吉本は自分の定義する「おたく」が、中森明夫の定義する「おたく」とも、岡田斗司夫の定義する「オタク」とも違うと宣言する(中森と岡田の言説は定義なのだろうか?)。
 その上で、吉本は、括弧付き平仮名の「おたく」(中森説)、片仮名の「オタク」(岡田説)、括弧なし平仮名の「おたく」(吉本説)と表記を分けて違いを強調する。
 ところが「一般的な意味でのおたく」を表記上区別していないため極めて狭い範囲を指すはずの「おたく」(吉本説)と、「おたく」(一般説)が判別できない。
 しかも、吉本は「ジャンルとしてのおたく」を語ることが同書の目的だと訳のわからないことを言い始める。
 「おたくジャンル」の定義が謎なら、「ジャンルとしてのおたく」という表現もまた謎である。


「それは一九八〇年代の他の文化にも影響を与えた。また「おたくジャンル」は特に、男性に対して強い求心力を持っている」(p.3〜4)


 というくだりを読んで頭が痛くなった。
 吉本の定義する「おたくジャンル」は最初から男性向け限定なのだから、男性に対して強い求心力を持っているのは当然の話ではないか。にもかかわらずこういう書き方になるのは吉本自身が定義した特殊な「おたくジャンル」と「一般的な意味でのオタク向けのジャンル」がいつのまにか同一視されていると考えるべきなのだろう。特殊を一般として語っているとして杉浦由美子を非難したのは吉本ではなかったのか。
 この特殊と一般の混乱と「人としてのおたく」を語らないという姿勢のおかげで、吉本の「おたく生成論」は、 あたかも「おたくジャンル」が成立することによって、おたく向けのコンテンツが充実し、おたくが出現するという倒錯した進化過程を辿るように読めてしまう。
 さらに、「おたく的な楽しみ方」というこれまた重要なキーワードを語るに際し、吉本はすべてはSFファンダムから始まったとして「楽しみ方」を羅列する。
 しかし、その総てが江戸時代、あるいはそれ以前から行われていた伝統的な知的遊戯のスタイルでしかないことには驚かされた。SFファンダムの意義がわかっているのだろうか?
 これなどは、先とは逆に一般を特殊として語るアクロバットである。
 他の用語解説もひどい。
 中でも「イマジナリーな文化」については何を言いたいのかさっぱり解らない。吉本にとっては能、狂言、歌舞伎、錦絵、落語などの古典文化はイマジナリーではないらしいし、小説に関してはSFやファンタジーがイマジナリーな文化に「近い」そうである。
 おそらく「マンガ、アニメ、ゲームとそれらの周辺領域」のことを指したかったのだろう。ならば奇妙な造語を弄ばずにそう書けばいいのに。
 また「活字文化」の説明は
「想像力が介入する余地が大きいが、ビジュアル文化に比べると間口が狭い」(p.10)
 という訳の解らない結びになっているし、「ビジュアル文化」の説明の結びが
「良くも悪くも視覚情報に依存する文化である」(同)
 だったのには呆れた。
 全く意味のない薄っぺらな解説を並べて一体どうするつもりだったのだろうか?
 吉本は、新しい定義や新語を作ることには熱心だが、どれ一つとしてまともに説明もできず、使いこなせてもいない。


■体感だけでは説得できない
 同書は第一章〜第三章で、SF、マンガ、特撮・アニメそれぞれのファンダムの成り立ちを語り、第四章でそれらを統合し、終章で現在と未来を語るという構成になっている。
 それぞれのファンダムが孤絶しているのであれば話は簡単だが実際には人も、コンテンツも大幅に重なり合い、周辺領域も広大である。そこを三つに切り分けたため、複雑に絡み合っていたリンクが切断され、逆に重なり合う部分をそれぞれのファンダム史の中で位置付ける必要から、繰り返して語ることになり、くどい印象を与え、時系列の確認を煩雑なものにしている。
 なんでこんな構成にしたのか意味不明なのだが、第四章で吉本は自著の構成を否定するかのように、
「一九七〇年代までは、「おたく文化」は広い意味でのサブカルチャーのなかのひとつだった。ジャンルの境界は未分化で、特撮、アニメ、マンガ、SFなどの相互越境は当たり前だった」(p.172)
 と書いてしまうのだ。
 ならば、最初からジャンルを切り分けずにファンダム全体の歴史を描けばよかったのに。何故、そうしなかったのか? 切り分けられないところを切り分けたのだから、そこには意味がなければならない。
 第四章は、それまでの思い入れと思い込みが集約される。特筆すべきはやはり、DAICON FILMと映画版マクロスに対する過剰なまでの評価だ。DAICON FILMとその後進であるガイナックス岡田斗司夫の功績は充分に承知しているが、「おたくの中心」だったとまで評価する人は決してマジョリティとは言えないだろう。
 吉本の言いたいことがわからないわけではない。
 DAICON FILMマクロスの流れを、「オタクによるオタクのためのコンテンツ制作」の嚆矢とするという評価自体は一次創作に限定すれば間違っていない。オタク産業システムの定着とも言えるし、オタク文化の自立とも言えるだろう。
 しかし、それをもって「おたくの起源」と呼ぶには無理がある。
 なぜなら、まさにマクロスがオタクによって作られた以上、その現場にすでにオタクは出現しているからだし、さらにそれ以前のガンダムやヤマトによって、「オタクが生まれた」ということも簡単だからである。
 また人としての「おたく」出現以前に「おたくジャンル」が成立するという吉本理論ではマクロスを作ったのは「おたく」ではないことになり、必然的に「オタクによるオタクのためのコンテンツ制作」を起源にはできなくなる。
 吉本に聞きたいのは、何故ヤマト、ガンダム、あるいは「アニメ新世紀宣言」を、さらには中森の「おたくの研究」による言葉としての「おたく」の一般化を「おたくの起源」に置いてはいけないのかということだ。
 そもそもどの時点をオタクの起源とするかなんてことは、どうとでも言える。少年漫画週刊誌の登場でも、国産テレビアニメの出現でも、「それば後のオタク文化の礎となった」と言えるだろう。
 もちろん起源がマクロスであると論じてもいいわけだが、そのためにはそれなりの説得力のある論理が必要である。
 吉本にしか理解できない定義も、奇妙な「おたく」生成論も、女性と漫画の排除も、マクロスを起源とするための布石だったのかもしれないが、むしろ説得力を失わせる結果にしかなっていない。
 オタク第二世代の体感ではこうなるのかという感慨はある。
 しかし、吉本はその体感と同世代の共感に依存しすぎ、一般化する努力を怠っている。
 この、体感を最優先し、都合の悪いことは無視するというご都合主義は、オタク成立以降のオタクと社会との関わりについての記述にも言える。
 吉本は「バブル的価値観」「モテ文化」なるものを非難に近い調子で批判するが、当時のオタク的文化がそうした価値観や文化と無縁でいられたというつもりだろうか?
 吉本のいう「おたく」または萌えオタのほとんどが「非モテ」で、社会と孤絶し、バブルの影響も全く受けずこられたのだろうか? 
 また、宮崎事件について、吉本はこう書く。

「宮崎が自宅に大量のビデオと本を持ち、他者とのコミュニケーションがうまく取れない、中森明夫が述べるような「おたく」であったと報道されると、おたく文化全体が激しいバッシングを受ける」(P199)

 どのメディアがどう報道し、どういう形でバッシング被害があったのかという具体的な記述がないが、これには裏付けがあるのだろうか?
 この記述が体感と記憶にだけ基づくのであれば、中森に対する中傷だと受け取られても仕方がないし、被害妄想的なデマゴギーとして批判されることになるだろう。


■結び
 『おたくの起源』はこれまでそれぞれのプロパー以外にはほとんど知られてこなかったファンダム史に踏み込んだという意味では評価すべきだろう。
 しかし、検証なしに参照文献とするには問題点が多すぎる。
 ここでは、大きな問題点を指摘するに止めたが、他にも全共闘運動やSFにおけるニューウェーブ運動の評価、引用文の原典不明など、どうかと思う部分が何カ所もある。
 どこまでが吉本の思い込みないしは思い入れなのか?
 どこまで同書を信頼していいのか、判断できない。
 なんとも残念としか言いようがないのである。