松岡さんとグールドと漱石

 松岡正剛さんの「千夜千冊」の5月21日付けは「グレン・グールド著作集」(みすず書房)でした。サスガに松岡さんは上手いよねー。ネット上で読める「グールド入門」テキストとしてはベストと言ってもいいのではないでしょうか? 内容的には、グールド本を何冊か読んでいれば、既知の内容が多いので、すでにグールド産業の深みにはまりかけている読者(おれおれ)は、さっとナナメ読みして、脳内整理に活用できます。
 ただ、松岡さんの文章は麻薬的なところあるので若い読者は要注意かも。松岡さんは論理で押しておいて、土俵際でスポーンとオカルトめいた言辞(というかかっこいいキャッチ)でうっちゃりを喰わせたりすることがあるように感じるんですね。それがまた気持ち良くって、解ったような気になって、ハマる。危険といえば危険だけど、そこに何かしらの契機というものが生まれる。そこがスリリングでほんとにもう、たまらん人です。よくわかんないまま、わかった気になって会社辞めて東京に出てきちゃった人がいるくらいです。まあ、20代の自分のことなんですけどね。
 ぼくは、松岡さんの重力圏からは、すぐに逃げだしちゃったけど、未だにココロの師匠です。カッコいいんですよ。だって、遊塾の面接行ったら、御簾の向こうに座ってるだもん! あーゆーケレン味が嫌いな人は嫌いだろうけど、好きな人には強烈な愛嬌なわけです。
 さて、「千夜千冊」でぼくがグッときたのは、以下のくだり。

 ピアニストにとってピアノが道具や武器であるうちは、そのピアノはスコアの裡にある。けれどもスコアが見える演奏はピアノにはなってはいない。ピアノは身体そのものになっていてほしい。
 グレン・グールドにとって、ピアノは身体機械あるいは知覚機構そのものだった。
 身体機械? 知覚機構? いやいや、こんな現代思想めいた言葉でグールドをちょびっと書いていては、さきほどのバッハの演奏には遠かった。グールドにあってはピアノを身体のように扱っているのではなかったのだ。いいかえなければならない。
 まず、「身体」なんて言葉がいやらしい(どうして現代思想たちは「身体」と言いたがるのだろうか)。これは、やめ、だ。身体ではない、体、カラダ、空だ、なのだ。グールドでは、その体そのものがピアノなのである。体というピアノ。ピアノになる体。ピアノを自由に操っているのではなくて、体のどこからがピアノになるかということ。それがグールドの演奏だった。

 これはぼくが考えていることでもあり、またグールド本に書かれていることの延長でもあるわけなんですが、松岡さんが語るとこうなるのか! という感動があります。その意味で、「千夜千冊」の面白味は、言ってることのオリジナリティではなく、松岡正剛という楽曲を松岡正剛本人が演奏するライヴとしての面白さかもしれません。
 あと、ぼくも気になってるのが(というかそのテーマで本を書いている研究者もいる)グールドと「草枕」の関係。ぼくはまだ「草枕」を読んでないので、これは宿題です。漱石は前期三部作と「猫」と「道草」は読んでいますが、最後の「道草」がぼくにとってはヘビーだったので、他の作品はずーっと宿題になっています。