報道とはネタ勝負なのか?
19日の日記で、ラサール石井さんの発言に不快感を表明しました。
ぼくの日記(19日分)
件の発言は少女誘拐殺人事件についてのものだったのですが、これに類する発言をジャーナリストの大谷昭宏さんが行っていることが、ネットで話題になっています。
大谷昭宏さんの当該記事(御本人のHP)
石黒直樹さんのブログ(大谷さんへの質問状を送ったそうです)
新田五郎さんのはてな日記(報道の構造的問題を指摘しています)
ぼくもオタク業界にはかかわりのある人間で、この日記でもピンキーストリートを採り上げたりしてきました。今も仕事机の上には包帯状態の綾波レイがいます。ちなみにぼくは50歳の男性で既婚者で子供が一人います。世間的にはオヤジと呼ばれる歳ですから、フィギュアが好きな人たちよりも、世代的には大谷さんに近いかもしれません。
大谷さんの発言はこれまでの報道の中でも大幅なフライイングだと感じました。
ある特定の趣味を持つ人々をひとまとめにしてナニゴトかを語ること自体はある程度仕方ない側面もあります。ただし、批判的に語る場合には周到な調査と分析の上で、偏見を可能な限り廃した上で語るのが物を書いてご飯を食べている人間のモラルだと思うのです。特に今回のような事件に関わる発言は、筆者の意図とは無関係にスケープ・ゴードを作り、ネタとして一人歩きする危険があります。その分、慎重に行うべきだし、反論に対する準備も必要です。
ぼくは、これまでに様々な事件と報道を見てきました。多くの場合、犯人(被疑者)が特定の趣味の持ち主であったことが報じられた後に、その特定の趣味の持ち主、さらにはその背景である文化を批判し、非難し、甚だしい場合には自主規制を強いるということが行われて来ました。
大衆の前に解りやすい物語を呈示し、スケープ・ゴードを用意し、ネタとして盛り上げ、売り上げや視聴率を上げるというセンセーショナリズムは報道の理想とは程遠いものです。
犯人の趣味嗜好がどうであれ、非難され、裁かれるべきは犯罪行為です。
大谷さんの論旨は、少なくともぼくの目から見て、大幅に変です。
大谷さんのおっしゃるように、仮にパソコン上のキャラクターやフィギュアの美少女としか恋愛しない男性が存在するとしても(可能性はゼロではないでしょうが極めて例外的だと思いますよ)、その「無機質なモノ」に向けられている欲望と、生身の少女を殺すことによって「フィギュア化」しようという欲望が直結するという論理が理解できないのです。だって生身の人間よりフィギュアの方が好きだったら、労力使って、人生を棒に振るリスクを冒してまで、生身の人間に手を出しませんよ。ムチャクチャ飛躍してませんか、大谷さん。