ビョーク、神秘主義

ビョークが行く

ビョークが行く

  • マイ・ビョーク週間のために読み中です。書いたのはフェミニスト系の人なんですが、一生懸命に自分の中の主義とビョークの非フェミ的な部分との折り合いをつけようとしているようにも読めます。ぼく自身、フェミニズムについては過渡的なローカリズムだと捉えていて、将来的にはグローバルな人間解放思想へとアップ・グレードされていくものだと考えています。フェミニズムの面白さは、男性社会とされている世界(実は男性というよりは力を持った者によってコントロールされている世界)の男性ということになっているぼくが見落として来たこと、存在すら気付かなかったことを異星人のような視点からビシバシと指摘して、視界を拡張してくれる点にあります。小谷真理さんとかね。本書にそこまで期待するとアレですが、テンポのいい語り口が小気味いいです。

科学を捨て、神秘へと向かう理性

科学を捨て、神秘へと向かう理性

  • 異星人的なパラダイム外の視点で世界を眺めるという意味では神秘主義がまさにソレです。著者のホーガンは科学ライターとして「科学の終焉(おわり) (徳間文庫)」「続・科学の終焉(おわり)―未知なる心 (Naturaーeye science)」で日本でも評判になった人。ガチンコのサイエンティフィック野郎かと思えば、幻覚剤実験なんかも体験してる、いかにも70年代以降の知識人でした。本書は最新の神秘学事情を知る上では最適の一冊でしょう。これを読むと、70年代末期から80年代にかけて頭のいい青少年の間で構造主義ポスト構造主義神秘主義が同時に流行した理由もわかります。乱暴に言ってしまえば世界の真実に論理で迫るのが構造主義で、非論理で迫るのが神秘主義なのかもしれません。本書には、神秘主義思想の理論というか現代神秘主義者や宗教学者の興味深い、あるいは示唆的な、あるいは大笑いな言説が収録されているだけではなく、ドラッグ実験、脳への電気的刺激実験、異星人(ないしは異次元世界)とのチャネリングといういささか「ムー」的な、ほとんどオウム真理教的な部分にまで言及していて、カナーリ刺激的。で、今一番興味深いのがスーザン・ブラックモアの「われわれが意識的な自我と思っているものは、実はミームの集団」だという発想。「個人的な自我は、脳の情報処理系によって保持されている一束のミームにすぎない」これは恐ろしいけど魅力的な考え方です。これも一種の「動的平衡」ということになるのでしょうか? 我々の身体も意識も実は次々と代謝されながら平衡状態を保つ「場」にすぎないのかもしれません。「すぎない」といってもこの「たかが場」が実は大変な重力異常を起こしている特異点でもあるわけで、少しは得意になってもいいでしょう。しかしこの得意な特異な場が崩壊すれば、場に収束していたミームなり、記憶なり、原子なりはバラバラに飛散するしかありませんてゆーか、すでにこの時点でもどんどんどん入れ替わってますけどね。じゃあ、ぼくの身体を通り過ぎて行ったミームなり、記憶なり、原子なりはどうなるのかというと、誰かの動的平衡の場に収束されるのかもしれませんし、未来永劫どっかをフラフラ彷徨ってるかもしれません。でもなくなりゃしない。万物は流転すれども存在の形態を変えるだけで無にはならないのです。世界は全部ひとつながりになっていて、ぼくもあなたも全然、孤立してもいなければ疎外されてもいないことになります。まあ、こんなのは疑似科学にもならないオカルトな戯れ言にすぎませんが、少しは気が楽になる考え方です。