性同一性障害の社会学

性同一性障害の社会学

性同一性障害の社会学

 MtFの著者によるトランスジェンダーに関する考察をまとめたもの。
 基礎知識を整理し、現状を理解する上での好著だと思う。
 何よりも、マスコミには性犯罪者予備軍と位置づけられがちなブルセラマニアに対する言及が鮮やか。
 著者の佐倉智美さんは、ブルセラマニアには「理想の女子高生像」との自己同一化欲求があるのではいかと仮定する。欲望を対象化と同一化に二分する考え方は作業仮説としてはありだが、現実はそうではない。「○○を愛する」と「○○とひとつになりたい」はほとんど同じことだし、さらに「○○になりたい」までは半歩しか離れていない。「視線化する私」という対象化にまつわる言説は同一化という認識を本能的に回避する防衛機制ではないのか? 我々は「愛」についてはもう少し踏み込んで考えた方がいい。

 もちろん、誘拐・殺害という行為は犯罪であり、擁護できない。他者の尊厳を踏みにじり、未来を奪う暴力を許すことができない、という…は動かすわけにはいかない。断じて。
 しかし、未成年女性を狙う性犯罪者が、本当は、そういう女の子になりたかっただけなのだとしたら。なりたかったのに、男性である自分の自己実現に許された範囲は“そういう女の子”の位置から見て、ジェンダーの壁の反対側でしかなかったのだった……としたらどうだろう。
 なりたい自分になれないジレンマ。そして、ついになれなかったというルサンチマン。それが、未成年女性を対象とした性的欲望に転化しているのだとしたら、そのプロセス自体は、誰かに責める資格はあるのだろうか。容疑者の心の闇を解明するうえで、今後は、こうした視点も取り入れてみることは有用かもしれない。まちがっても成人の異性に欲情する以外の性欲は異常だという正論を振りかざして、多様なセクシュアリティのあり方自体に追及の矛先を向けるようなことはないようにしないと、事件の再発は防げないのではないだろうか。
 むろん、このように仮定や推測もまじえた話を、現実の性犯罪と照らし合わせるのは危険でもある。なにより、ブルセラマニア=性犯罪者なのでは決してない。
 だが、少なくとも、ブルセラマニアの多くは、なりたい自分の理想像を、世間からの変態の烙印と引き替えに、やむにやまれぬ思いで追求しているのだとは、考えてもよさそうだ。
 そういう意味では、ブルセラマニアもまたトランスジェンダーである。(同書P116〜117)

 ここまで踏み込む人も珍しいと思う。
 すばらしい。