微妙な飯沢耕太郎の少女漫画論(7/25:一部改稿&加筆)

戦後民主主義と少女漫画 (PHP新書)

戦後民主主義と少女漫画 (PHP新書)

 写真評論の人だと思っていたので、意外な一冊。
 あと、オレと同年生まれだったのも意外。
 当然というか、リアルタイムで読んだ少女漫画がほぼ重なっている。
 大島弓子萩尾望都岡崎京子という文脈には共感しきりと言ってもいい。
 著者らしいのは岡崎京子の後にガーリー・フォトが配置されるところだ。
 ただ戦後民主主義という男性原理と、少女漫画に現れた「純粋少女」を対置させるあたりに飯沢の限界が見える。
 著者本人も男性原理や女性原理という「紋切り型」の、「バイアスのかかった言葉」を使うことに抵抗を示しているものの、結局は、

 七〇年代以降の十数年というのは、シャーマンとしての少女による少女漫画、つまり「少女の少女による少女のための純粋少女漫画」が、時代の見えない“風”に押し上げられてはじめて出現した時代です。(p.20)

 みたいな物言いになってしまう。
 浪漫主義的というか神秘学的というか、言いたいことはわかるんだけど、気持が悪い。
 少女漫画というオルタナティブな回路を「純粋少女」などという、感覚的でジェンダー二元論的な「言葉」に回収してしまっていいのか?
 それは、かつて「少女」のイコンとイデアを特権化し、物神として消費してきた「男性原理」とどう違うというのだろうか?
 飯沢は「男性原理」で掬い取れないものに「純粋少女」という名前を与えてカテゴライズすること自体が「男性原理」の発動であることを自覚していない。
「純粋少女」などという陳腐な名称を与えられた瞬間、そのわけのわからないオルタナティブな諸々は「自分が男(女)性だと思い込んでいる人々」にとって「わかったようなこと」にされ、腐り果てていく。
 オレは70年代少女漫画は、制度的・商業的な「少女向け」というセグメントを超えた、つまり回路が外界に向かって開かれたことが、一種の革命だと思っている。
「少女のための漫画」から「少女も読む漫画」へのパラダイムシフトと言い換えでもいい。
 ただ、これは少年誌でも、男性向けのエロ漫画でも起こっている現象だ。
 資本の「都合」によるジェンダー区分とは無関係なところにも漫画は誤配され、その領域を広げていく。
 そこには飯沢のいう「強者の論理」からはとりこぼされたものが大きく作用しているのだと思う。
 それを「純粋少女」などという判った風な言葉で語ることはできないだろうし、すべきではないだろう。
 悪い本ではないし、面白いし、示唆にも富む。
 だが、最後の最後でどうしようもなく気持が悪いのだ。