読んでいる本:弱さということ

  • 松岡正剛「フラジャイル 弱さからの出発」筑摩書房
    • 図書館の妖精が「ほらほら師匠の本だよ」と囁きました。松岡さんの本は何年も読んでないなぁ。ひょいと手に取って読んでみたら、懸案となっていたことのアレコレがすでに書かれているではありませんか。むう。さすがは俺様の師匠であるなと感心。ぼくはお仕事で漫画評とか書評とかもやってるわけなんですが、いつの頃からか、一方で完成度を評価の一基準としながら、他方では「完成度は大事か?」ということが気になり始めました。ある作品の完結性とか完成度というのは商品としては重要かもしれないけれど、作品としては二義的なものにすぎないんじゃないかということ。実はこのテーマは先日脱稿した共著本(今年中出るのか?)に書いたことでもあるわけで、ここでは詳述しませんが、一歩進めてしまえば、作品とはそもそも完成しないんじゃないかということです。もちろん怠け者の免罪符という見方も大いに成り立ちます。では、怠け者のどこがいけないんでしょうか? という問いに「みんなの迷惑になるから」なんて学級委員みたいな答しかできない人の方が多いでしょう。ぼくはそんなことはどうでもいい。迷惑だったらつき合わないだけの話なんですよ。以前、ある研究者が、とある研究会の席(公式な発言としていいのかどうか迷うのでぼかします)で「『ダメだけど好き』ではなく『ダメだから好き』というのがオタク」という卓抜な定義をしたことがありました。ぼくは「上手い! 座布団三枚」と感じ入りました。まだこの時は一種の批判的文脈で捉えていたような記憶がありますが、ここ最近は、そうしたオタク的心性のダメさを嘲笑したり、切り捨てたりするというのも不粋なことだと感じています。少なくとも、強者からみればつまらないもの(未完成なもの、断片にすぎないもの、弱々しいもの、壊れたもの、捨てられたもの)に愛情を感じるのは否定されるべきではないと考えるのです。なんだか松岡さんが最大のオタクの擁護者のように見えてきました。ヒドイ話かもしれませんが、松岡さんの考えに従えば、この本は全部通して読む必要はありません。拾い読みでも充分です。うや、むしろ、つまみ食い読みこそがベストかもしれませんし、そういう読みに耐えるだけのホログラフィ的な構造になっていると思います。